今日名古屋に線香をあげに行って来た。 曽根が死んだ。 享年39歳。 立教大学の拳法部の後輩である。 20年程前の立教大学拳法部は強かった。 軟派のイメージが先に立つ立教大学では、異色な感じがするが強かった。 試合形式が実戦に近い格闘技であると、玄人受けする武道「日本拳法」。 そんな競技で、立教大学拳法部が常に優勝を狙う位置にいたというのは、嘘の様な本当の話。 故あって俺は数年前、拳法部とは縁を切った。 そんなことはどうでも良い。 曽根は、俺が5年の時の一年生。 故あって俺は、大学に6年通った。 そんなことはどうでも良い。 5月19日(月)午後11時。 私の店に後輩の細田から連絡が来た。 「先輩、あの、、、曽根さんが亡くなりました。」 俺は一瞬わが耳を疑った。 「え?」 「先輩、曽根さんご存知ですよね。」 「知ってるよ、勿論」 「もう、通夜も告別式も終わっているんですが、私も先ほど名古屋の山田先輩から連絡を受けまして、、、」 「―――ほんとか、、、」 「はい、一応ご連絡までと思いまして、、、」 「おぅ、判った。ありがとう」 何という事だ。 後輩が39歳の若さで、俺より先に死ぬとは。 何という事だ、まったく。 何という事だ、本当に。 いったい何があったというのだ。 曽根は、拳法の実力で言うと目立つほうではなかった。 性格的にも大人しく心優しいタイプで、目立つほうではなかった。 不器用な拳法をしながら、先輩に指導されたことを一所懸命忠実に守ろうとする、正直の上に馬鹿が付きかねない位の奴だった。 そんな奴だから、余計気にかかる。 出来の悪い奴ほどかわいいと・・・そんなタイプの後輩だった。 健康で元気だったのが、5月9日に心臓の調子が悪いと言って緊急入院。 快方に向かい、一般病棟に移った直後に様態が一転。 5月17日早朝、息を引き取ったとの事。 5、6年ほど前、まだ私が新宿で「良久」を営業していたとき、同期の連中らと曽根は店に来た。 私が拳法部の監督をやっていた頃だ。 そのとき曽根は、 「マラソンが好きで、毎年ホノルルマラソンを走っているんです」 と言っていた。 そのために働きながら日々トレーニングもしていると。 私は、その話を聞いて嬉しかった。一種感動に近い喜びがあった。 曽根が、自分に合う競技を見つけて、そのために日々努力している、前進している。 そのとき私は曽根に次のような内容のことを言った記憶がある。 「俺は今拳法部の監督として学生に拳法を教えているけど、何が大切かって、そういうことなんだよな。辛い練習を歯を食いしばってやる、何かに向かって努力する、 少しずつでも前に進む、辛くても放り出さない・・・。そんな中に喜びや楽しみ、充実感を見つける。プロのキックボクサーになりたいというなら、それはそれで素晴らしい事だ。武道で強さを追求するのは正しい道だ。 しかし拳法部の奴らの大半は大学を卒業して就職して社会に出て行くわけだ。そんな奴らに一番必要なのは、拳法の肉体的強さ技術的強さよりもそういう精神的強さなんだよ。 もちろん強靭な肉体は重要な資本だ。でも拳法や喧嘩が強い弱いなんて、小さなことなんだよ。拳法をやるからには強さや技術的なことを軽んずることは絶対出来ないし、 強くなり上達することが目標であってそれを否定することは出来ない、だけど肉体的強さなんていうのは一時の物なんだ。本当に大事なのは目標に向かって極限まで自分を追い詰め、努力することなんだ。またそれを支える精神なんだ。 目標に向かって努力する。例えばその結果勝って自信をつけ、負けて次への糧とする。勝利に喜び、敗者をいたわる。敗北から立ち上がる。 そんな経験の積み重ねからいろいろ学ぶことが出来れば拳法を選んだのは正解だと言うことになると思うんだ。 お前は競技者として拳法の方は伸び悩んだかもしれないけど、拳法をやることによって学ぶべきことを一番しっかり学び取っているのかもしれないな。そういう点において俺なんかまだまだだといつも感じるんだ。 お前はすばらしいな。人には直接見えない部分だけど拳法部にいて内面的に一番強くなっているかもしれないな。拳法に限らずどんな競技でも学問でも、同じ頂点に向かって違うルートから登っているだけなんだと感じることがよく有るけど、 お前の方向性は確実に頂点の方を向いているような気がするよ。俺なんかまだまだチンピラといおうか、暗中模索といおうか、間違いだらけと言おうか、もがいてるばかりだから・・・・」 曽根は走り続けた。 曽根は走り続けた。 曽根は走り続けた。 曽根の生き様に俺は改めて人生の何かを学んだ。 曽根は若くして人生のゴールまでたどり着いたのだ。 だから休憩に入ったのだ。 俺はまだまだだから、走り続ける。 走り続ける。 それが、曽根から学んだことだ。 曽根の訃報を聞き、名古屋の実家を訪ね、ご遺族と話し、帰るまで、私はとても淡々としたものだった。 曽根の実家を退出し玄関を閉め、門を閉める。 帰途に着く。 地下鉄の駅に向かうその道で、歩きながら私は涙があふれ止まらなかった。 名古屋駅へ向かう地下鉄の車内で、私は涙があふれ止まらなかった。 人目もはばからず私は涙を流し続けた。 地下鉄の窓に映る自分の顔は、泣いていた。 帰りの新幹線の中から東京に電話して夜、先輩の三留さん、同期の富永、曽根の同期の古田とささやかながら追悼飲み会。 「曽根に献杯!」 |