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「社会人格としての心理」(2008.07)
 私は、かつて新極真会と言う空手の団体に所属していたが、2006年3月に退会した。
 私の子供2人も2007年11月に退会するまで新極真会に所属していた。
 大変お世話になり感謝している。


 ちょっとした行き違いがあった。

 2008年6月、退会している新極真会の本部会費8000円が私の口座から引き落とされている。
 引き落としミスなので、かつての所属道場経由で返金を請求。

「あ〜、スンマセンでした」
位の軽い乗りで返金されるものと思っていた。

 しかし、退会時の本部に対する提出書類に不備があり返金不可、との本部回答が道場経由で小野側に伝えられる。
 支部に対しての退会届は出ているが、本部に対しては退会届が出ていないとの理由。
(今回は触れないが、この2重構造のシステムには問題があるのではないだろうか。新極真会を退会するには、本部と支部2箇所に対しての書類提出を要求される。本部支部バラバラに提出しても、道場に一括提出しても良いという提出方法にも今回の混乱を招いた一因があると考える)

 退会時、所属道場の指導の下、必要提出書類は全て提出済みと主張する小野側。
 退会書類提出を受けた道場は、全て提出したと主張する小野側に対して、提出は受けたが提出書類の内容についての記憶はあやふやであるとの旨、回答。
 よって本部の回答に納得がいかない小野側は、本部に直接問い合わせ本部に返金を請求。本部は再調査のみを約束。
 再調査後、道場から連絡が入り、本部に書類が無いので本部の決定変更は難しいため、道場からポケットマネーでの返金を行う旨小野側に申し出る。
 しかし小野側この提案を拒否。
 理由は、道場、支部、本部の区別は小野側には無く新極真会は新極真会。新極真会が引き落とした以上新極真会が返金するべきであるとの考え。
 新極真会組織内部の動きは自組織内で処理されるべきもので、小野側に言われても返答の仕様が無いし、小野側の関知するところではない。
 ましてや、誰か個人がポケットマネーで負担するべきものではない。

 あくまで引き落とし者からの返金を求める小野側。
 本部決定はくつがえせないとする新極真会側。

 その後、道場の上部団体である支部からの返金申し出をうけるも、小野側これを拒否。
 理由は、以前と同じ。
 小野としては、本部が引き落とした以上本部が返金するべきであるとの立場を取る。ましてや8000円の返金も去ることながら、新極真会としての意思が重要なのである。どこか内部的に不備があった場合、最終的に責任は母体に在りという姿勢を小野側としては求めた。

 ただし返金を申し出た道場、支部の誠意は感謝の念と共に汲み取ったつもりである。
 ただ、小野側としては誰かが個人的に穴埋め負担して物事を終わらせるという申し出を、受けるわけには行かない。

 両者平行線のまま小野側が本部代表との話し合いを求める中、時間の経過と共に、新極真会側は当初あやふやだったと言っていた提出書類内容は支部用のみだけであって、書類が残ってない以上本部退会届提出は無かったという立場に移行する。


 書類不備の原因は、新極真会側の書類紛失とする小野側。
 書類不備の原因は、小野側の書類未提出とする新極真会。

 新極真会としての社会人格としては動かない、と言うところが会の趣旨であり実情であると言う姿勢が浮かび上がってくる。

 書類を出した出さないの水掛け論になり、証明不可能。

 社会人格として法的に争ったりする時、個人の良心を後ろに回すことは普通に行われるので、新極真会側の姿勢の変化に対して驚きはしないが肯定できるものではない。
 残念ながら、ここまで話が進んだ時点で小野側は抗議を打ち切る。


【打ち切り理由】
・代表者との話し合いを要求するも、組織下部の者の正当性の主張で終わるであろうと言う予測。
・個々の当事者の思いはさておき、新極真会側の意思が真実の追究では無く新極真会の法的正当性を主張すると言う姿勢へ転換した事。
・法的闘争になると書類の存在が重要に成るが、出した出さないの水掛け論部分には、残念ながら結論が出ない。結論が出ないままに争った場合の結果は見えている。
つまり、真実追求、良心と誠意による歩み寄りではなく、この先は法的闘争に移行せざるを得ない状況になり、それを望まない小野側は話を打ち切った。

 元々訴訟を起こしたり、事を大きくしたりするつもりも毛頭無いのだが、今回の事で法廷闘争に移行した場合、新極真会を法的に追い込めるだけの物的証拠が無いのを小野は充分認識している。
 仮に小野が原告となり返金訴訟を起こしたとしても、

「現状として小野は新極真会を退会しているものと考えるのが妥当である。しかしながら新極真会の書類紛失の件に関しては小野側未提出の可能性を完全に否定できるだけの証拠が充分あるとは言えない。よって本訴訟における原告の請求は却下する」

 この程度の司法判断が示されるであろうことは容易に予測できる。
 また新極真会側もそれを知っている。
 証明出来るかどうか分からない事に時間と労力を使う余裕は、今の私には無い。

 不本意ながら結果的には抗議を打ち切り、書類不備のため返金不可と言う新極真会側の回答を小野側が受け入れる事でこの件は終わることと成った。


 * * * * * * *


 些細な案件かもしれないが、小野側が水面下での返金を拒否し、法的に証明することが無理なのを承知の上で抗議したその理由は、新極真会の会としての意思を重視していたからである。
 新極真会で起きた問題に対して、本部が、支部が、道場が、と昔の悪しきお役所仕事のようなたらいまわし的動きを外部に対して見せることは納得のいくものではない。

 そして小野側は、証明不可能なことではあるが、事実に対する自信と確信があった。
 それは、書類提出済みと断言する小野側に対して、下部組織が返金を申し出たことにも現れていると考える。

 新極真会側の当事者個々は、色々良くやってくれていたと思う。
 その時点での個々の実力を越えるような動きもしてくれていたことも認める。その点については先にも述べたとおり感謝している。

 新極真会の代表には会わずに予測を立てたが、直接、会としての意思を聞くべきだったとの反省点もある。

 一つ認めるとなし崩しに色々問題が噴出する可能性もあるから、新極真会としては例外を出す分けには行かない。認めるワケには行かないという部分もあるだろう。
 組織に所属する人間が保身的本能が強いのは儘あることだし、組織人は組織の枠組みを越える事は中々出来ない。
 立証できない物事には取り合わないと言うのも、社会人格として普通であると言えば普通である。

 これ以上続ける事は結局、良心不在の法的争いに移行し、双方の不利益になると小野側は判断した。
 よって私は、打ち切ることによって抗議を終える事を決定した。
 個人による返金も一切受けない。

 人によっては、がたがた言わず返金の申し出を受けるべきだと捉える人も居るだろう。
 仮に、返金だけが目的ならば、その申し出があった時点で終わらせることも可能ではあった。
 しかし、それは私の望むところではなかった。


 * * * * * * *


 今回実感するのは、世知辛い事ではあるが、社会人格として動く場合は常に訴訟を想定してあらゆることに対抗しうる手法を取らねばならないと言う事である。
 そうしなければ、社会において自らを正当化する事は出来ない。
 一度でも裁判を経験したりすると痛感することではあるのだが、分かっていても、そんな風に構えて生活している人は多くは無いであろう。ある意味社会は信頼で成り立っている部分が多い。

 母体が大きくなると小回りの利いた大岡裁きは無理であるという現実。
 残念ではあるが、これが社会的現実である。
 一般人格における良心は、社会人格の元においては後回しにされてしまうのが悲しいかな今の社会であることを痛感する。
 イヤそればかりでなく、一般人格としての良心は、時として社会人格の邪魔者にさえ成りかねない事だ。


 訴訟社会としての欧米化、頑として否を認めない欧米化。
 社会人格としては、そうならざるを得ないのだな。

 ある意味これも社会学習、社会勉強か。
 弁護士でも有るまいし、こんなことあまり勉強したくは無いのではあるが・・・・・。

     


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