「インディアン・ランナー」 ハリウッド俳優、ショーン・ペンの第一回監督作品である。1991年度作品。 地味な内容の映画で、日本でもアメリカでも、そんなに大ヒットしたわけではない。 しかしこの映画が私の心に深く焼きついている。好きな映画と言う表現が当てはまるかは、わからない。とに角、心に焼き付いているのである。 この映画を観ていると、切ない。 切なくて、切なくて、身の置き所が無くなる。 ベトナム戦争盛んな、1960年代後半のアメリカの田舎町を舞台にした映画である。 小さな町の保安官である兄ジョーと、其処に帰ってくるベトナム帰還兵の弟フランクを淡々とした調子で描いている。 どうしようもない不良の弟フランキーと、弟を優しく包み込む兄ジョー。 わかっていても自分の中の甘えや不良を抑えられ無いフランキー。 そんな弟に理解を示しつつも、正しい方向へ導こうとするジョー。 結婚して、妻が妊娠して、更生するかに見えるフランキーだが、現実に立ち向かうには臆病なフランキー。些細な事でカッと来る事を止められない。 出産の時、そのプレッシャーに耐えられず、酒場へ逃げ出すフランキー。 酒場の主人が、悪へそそのかすかのごとく、酔ったフランキーに邪説を吹き込む。 ジョンが現れ、帰るようフランキーを説得するが、ジョーの説得にもかかわらず飲み続けるフランキー。 自分の在り方を、社会のせいにしてわめくフランキー。 「人が数学の問題を一生懸命考えていると、太って眼鏡を掛けたバカ野郎がさっさと答えて終わっちまうんだよ。―――俺はまだ一生懸命考えてんのに解んないまま置いてきぼりだよ。それが社会だ」 ジョーが、自らの手のひらをガラスで刺し、「刺せば血が出るんだ」とばかりに 「社会は優しく無いよな。―――でもお前は逃げている」 と自分の身を削るまでして説得する。 フランキーを置いてフランキーの奥さんの出産を手伝いに帰るジョー。 ジョーが正しいと解っているが、現実から逃げるフランキー。 ようやく家に帰ろうとするが、酒場の主人がジョーの流した血を拭く姿を見て、頭の中の何かが切れる。 兄貴の正しさ、正義の象徴に見えた血を拭き取る邪説を吹聴していた主人を見て、フランキーは逆上する。 酒場の主人をめった打ちにして殺してしまうフランキー。 連絡を受けフランキーをパトカーで追う、保安官であり兄であるジョー。 田舎道のはずれで、フランキーに追いつくジョー。 逃げるのをやめ一旦停車するフランキー。 距離を開けて車から降りるジョー。 其処でジョーの目に入ってきたのは、・・・・・子供のままのフランキー。 一瞬自分の目を疑い立ち尽くすジョー。 フランキーは車を出す。 立ち尽くすジョー。 それがジョーとフランキーの最後。 臆病な犬ほどよく吠え、噛み付く。それを見守る飼い主の図とでもいおうか、ざっと以上のような内容の映画である。犬は、野良と化して去る。 ジョーとフランキーの両者が自分に内在する事を感じながら、この映画を観ると切なくなる。 私には切なくて、切なくてどうしようも無い映画だ。 ただ、この映画が解らない、面白くないと言う人も、多数いる。 人の感性は、それぞれ違うからそれでいいのだが、この映画に対する理解度は、一種私の物指しになっている。 その正当性は別にして優しさ、愛情、社会性、経験その他、なにかを測る物指しになっている。ただ、理解度、共感度が浅いからと言って人間的評価が下がる事は特に無い。 お前はフランキーだと言われる事がある。認める。 だがその前は、ジョーだった。 順番が逆であるべきだと思う。 今は、どっちだ。 |