糸川正(いとかわただし)。 この名前を聞いて「あぁあの人か」と思う人は、世間一般ではあまり居ないと思う。 極めて私的Big Nameです。 確か平成8年の1月ごろだったと思う。亡くなった。 享年70歳くらいだったと思うが、正確には知らない。 私は、この人についての正確なことをあまり記憶していない。 どこかにこの人に関しての著述が残っているわけでも無いと思う。戸籍でも調べれば記録はちゃんと残っているだろうが・・・・。 市井の人、糸川正。 だが、 「銀座私設警察副団長」 とか 「海運会社会長」 と聞けば、 「ムムッ、何者だ」 と思う人は多いのでは無いだろうか。 私が知っている、身長160cm程で小柄な糸川さんの肩書きは、 「銀座私設警察副団長」 「三立海運会長」 「立教大学レスリング部OB」 「立教大学拳法部初代OB会長」 正確に言うとみんな「元」と付けなければいけないのだろうが、そんな事はどーでもいい。 銀座私設警察とは、第二次世界大戦敗戦後の東京で暴動が起きるとデマが流れた時に、それに乗じて民衆が暴徒化してしまうことを阻止した集団である。 敗戦当時、日本の警察力は弱く自警団のほうが実効力を持っていた。 自警団といえば聞こえがいいが、実はヤクザと区別するのは困難な集団である。 銀座私設警察副団長に関しては、私は確認をしたわけではなく伝聞である。 他の3つは全部私が確認している。 しかし、私が30歳くらいの時、俺は元銀座私設警察だった、という人に 「副団長の糸川さんて知ってますか?」 と聞いたら 「会った事は無いが名前は知っている。雲の上の人で俺なんかの話せる人じゃなかった」 と語っていた事がある。これは事実である。 私が立教大学拳法部の部員だった頃、糸川さんは拳法部のOB会長をしていた。 それが私との接点である。 私が入部した頃は、脳溢血で一度倒れた後だったらしく、その後遺症で糸川さんの右腕はあまり動かなかった。 立教大学拳法部が同好会から体育会に昇格する時、レスリング部のOBだった糸川さんがかなり骨を折られ、同時に拳法部のOB会長を引き受けたと聞いた。 大学の体育会に所属するためには、いろいろクリアーしなければならないことが沢山あったようだ。 私が現役学生の頃やOBとして拳法部に顔を出していた頃、糸川さんに随分かわいがってもらった。 私が現役の頃、糸川さんは平日に運転手を伴って拳法部の練習にひょっこり顔を出し、ニコニコと皆を見ていた。 ある日の練習中。 私がサンドバッグを叩いているとニコニコと近づいて来て、 「小野ぉ、胴突き突いてみな」 当時、日本拳法ではボディストレートを胴突きとか胴抜きと言っていた。 「ハイ」 (バシッ!) 「もう一回」 (バシッ!) 「そうじゃねぇんだよな」 「?」 「お前、人刺したことあるか?」 「いえ」 「胴突きっていうのな、ドスで相手を刺す時の要領と一緒でな、腰だめにドスをしっかりと握って体でぶつかって行くんだ」 「はぁ」 「胴突きってのはな、ドスが拳に変わっただけなんだ。わかるか」 「はい・・・なんとなく」 「やってみな」 (バシッ) 「もっと体重乗せるんだよ」 (バシッ!) 「そうそう、それだ。忘れるなよ」 「はい」 「いっひっひっひ・・・小野ぉ・・・俺人刺した事あると思うか?」 「さぁ・・・」 「いっひっひっひ・・・・・・」 また別のある日の練習中。 私がサンドバッグを蹴っていると、 「小野ぉ、前蹴りってのはよ、もっと膝をかいこんで槍で突くようにまっすぐ蹴るんだよ」 ニコニコ。 またまた別のある日の練習中。 「小野ぉ、ピストルと喧嘩した事あるか?」 「いえ」 「ピストルを構えられたらな、体勢を低くして思いっきり相手に突っ込んでいくんだ」 「はぁ」 「ピストルなんか持ってっても、実際に上手く撃てるような奴はほとんど居ないんだ」 「はぁ」 「下手糞な奴はみんな撃つとき銃口が上がって上のほうに弾は飛んでいくから、体勢を低くして一気に距離を詰めて勝負するんだ」 「はい」 「ピストル構えているのに向かってこられると、相手はあせってよけい上を撃つもんなんだ。エッへっへっへ・・・・」 思うように動かない右腕がもどかしいようだったが、身振り手振りを交えて、 「こうやって、突っ込んでいくんだ・・・・ウッへっへっへ・・・」 と教えてくれた。 試合前の練習を見に来た時、悪戯っ子のような笑顔で、 「そんなに練習して、疲れないかぁ?」 そして 「小野ぉ、優勝したいか?」 「はい」 「優勝できそうか?」 「します」 「そうか・・・・・そんなに頑張るなよ。・・・2位でいいじゃねぇか・・・・なぁ、小野ぉ」 「いえ、優勝です」 「お前等が優勝したら、下級生達やることなくなっちゃうじゃねぇか・・・」 「???」 「今年はお前等2位でいいじゃないか、優勝は来年に取っといてやれよ・・・・・イヒヒヒヒ」 残念ながら事実私は2位になった。 2位を目指した結果が優勝なら、そんな素晴らしいことは無い。 しかし、始めから優勝優勝と騒ぐなと言いたいのだろう。 勝ちに行く執念と、勝ち負けにこだわり過ぎるあまり左右されてはいけない集中力の両方の必要性を 「2位を目指せ」 と言う言葉に凝縮させていたと、私は解釈する。 そして次の年に繋げる事、自分達だけで頑張るのではなく、下級生を、人を育てる事を常に考えろ、と。 私が2年生の頃、立教大学が優勝した。 糸川さんは4年生ばかりの優勝チームに向かって、 「何故、下級生を使わない!お前等が強くてお前等だけで優勝できるからそれでいいのか!?お前等なんかより強い下級生がいっぱい居るじゃないか!!何故そいつ等を使わないんだ!!!俺は不愉快だ!!!」 と啖呵を切って、祝勝会も何もすっぽかして帰ってしまった事があった。 優勝チームは、よくやったと褒めてもらえるとばかり思っていたので、かなり面食らっていた。 実際下のものを育てないチームが、―――いやチームに限らず会社でも何でも組織が―――衰退の道を辿るのは、歴史を振り返れば常である。 糸川さんは、自分の事しか考えない自己利益追求型の人間を嫌っていた。 また、他人を思いやる気持ちに欠ける奴を嫌っていた。 そして、やるべき事をやらない奴を嫌っていた。 増してや、人のふんどしで相撲を取ろうとするような奴とか、虎の威を借りる狐的人間を嫌っていた。 それが、人生経験豊富な人間のたどり着いた、一種悟りのようなものであったのだろうと、私は思う。 戦後、私設警察や海運会社で数々の修羅場をくぐりぬけて来たであろう糸川さんは、いつも悪戯っ子のように笑っていた。 そして目の奥には、経験に裏打ちされた揺ぎ無い光が輝やいていた。 普段いい加減でも、やる時はやる! 私にとって糸川流、糸川イズムとでもいうその精神は、私の中にしっかりと根付いている。 どれ程咀嚼できているかは別として、少なくとも私はそう思っている。 私は、糸川イズムの正統継承者を自負する。 糸川正は、私にとってそんな人物であった。 ある先輩が、 「小野ぉ、糸川さんってやっぱすげぇぞ」 「?」 「あの人と銀座歩いていたら、銀座のクラブの年配のママとかが『あーらー、糸川さんお久しぶりー』『ターさーーーん』なんて声掛けて来るんだよー」 「へぇー」 「それも、あちこちで何人もだぜ」 「へぇー」 やっぱり銀座私設警察副団長は本当らしい。 そんな糸川さんだが、老いにはやはり敵わなかった。 晩年、糸川さんが入院したことを聞きつけ見舞いに行った時、一緒に行った同期の富永が、 「前回俺が見舞った時は、俺の事分かってなかったみたいだから・・・・今日も俺達の事が分かるかどうか分からないぞ」 「・・・・・そうか」 丁度昼時だった。 テレビではNHKのお昼の喉自慢がかかっていた。 今治市からの中継だった。 病室に入って、 「今日は・・・」 無言でジーっと私を見る糸川さん。 しばし沈黙。無言。無表情。 分からないか・・・・・。 「・・・・・(ニコッ)」 「(分かったのか!?)」 「・・・・・小野が来たんじゃ・・・・・・飯喰わなくっちゃ・・・・エヘへへ・・・」 前と変わらない悪戯っ子がそこにいた! 横にいた介護の人が、 「そうよー糸川さーん、ちゃんと食べてねー」 どうやら飯が不味いから食べないと言って、駄々をこねていたらしい。 介護の人がご飯の支度をしながら、 「糸川さーん、散歩とかも嫌がらずにしてねー」 「―――」 「先輩、運動していないんですか!?運動しなきゃ駄目ですよ、動けるんでしょ。・・・そうしないと体弱っちゃうから」 「―――小野に言われたんじゃ、散歩しなきゃいけねぇな・・・ウヒヒヒヒ・・・なあ、富永」 「はい。・・・・そうですよ先輩」 と富永。 「だって小野、主将だもんな・・・・イヒヒヒヒ・・・主将のいう事聞かなくちゃ、怒られちゃうよ・・・なっ富永、ハハハハー」 「そうですよ、先輩。早くよくなって下さい」 と富永。 病院を出てから俺が、 「先輩、しっかりしてたじゃん」 「そうだな・・・」 ただ富永は、 「意識は前来た時なんかよりもはっきりしているけど、体力的には衰弱したような気がする」 と言っていた。 「―――そうか。んー・・・何とか復活して欲しいけどなぁ」 「そうだな」 「・・・・・」 余談だが、お昼の喉自慢に偶然今治の知り合いが出て歌っていた。 そんな妙な日だったのを覚えている。 その後、数回見舞ったが半年ぐらいして糸川さんは亡くなった。 勿論、私のところにも連絡が来た。 糸川さんの葬儀は、目黒の寺で盛大に行われた。 拳法関係者を中心に、多数の人間が通夜、告別式に訪れた。 私はこの時期、無職だった。 と言うより、今と同じく仕事の無い俳優でふらふらしていた。 生活も褒められたものではなかった。 自分の人生恥ずべきところは無いが、人から見れば、こんな生活をしている奴が居るのか!?というような生活だったと思う。 一言で言えば、ヤクザではないがヤクザな生活をしていた時期だった。 そんな人間だから、拳法部の席にももう数年顔を出していなかった。 そんな人間だから、人の集まるところには、ほとんど行かなくなっていた。 しかしそんな私だが、迷うことなく通夜と告別式には行った。 通夜が終わってから、私は拳法部の諸先輩に立教大学拳法部の監督就任を要請された。 何故私が? 何故こんな私に? どうやら誰もなり手が無く、私のところにお鉢が回ってきたらしい。 諸先輩が私の生活振りを知っていたら、監督就任を要請される事は無かったのではないだろうか。 無理だと私は断った。 それに生活ぶりはさておき、3月には第一子誕生を控えていた。 そして4月には、お好み焼き屋を開店すべく動き始めていた。 無理だ。 しかしその時ふと私は、糸川さんの引きでこういう話になったのではないかと感じた。 きっと糸川さんの遺志だ! そうだ、そうに違いない。 勝手にそう思い込んだ私は、監督就任要請を受諾した。 糸川さんが自らの命をもってして、俺を立教拳法部の監督に引っ張った。 今でも私はそう思っている。 翌日の葬儀の最後、出棺前に立教大学関係者が棺の周りに集まり校歌を歌った。 歌い始めてすぐに、私は涙で何も見えなくなった。 涙で校歌を歌い続けることが出来なかった。 とめどなく涙が流れた。 出棺。 私はゆがんだ霊柩車をじっと見送った。 糸川正、今はもうこの世に居ない。 しかし、 「糸川正は、今も私の心の中に生きている」 私は糸川イズムの正統継承者を自負する者である。 糸川さんが、入院する前の事。 しかし、もうすでに医者から酒を止められている頃の事。 それでも糸川さんは、酒を飲んで家族にたしなめられる事がよくあったらしい。 そんな時糸川さんは、 「小野達に誘われたから、酒を飲んだ」 と、私とか富永をダシに、家族にウソの言い訳をしていたらしい。 私は、後日その話を聞いた時、何故か嬉しかった。 糸川さんは、きっと俺達と飲みたかったのだ。 糸川正。 どこかでは、こう呼ばれていたと聞いた事がある。 「銀座のター坊」 |